追悼 阪神・淡路大震災
nashiyukiさん(俺のページ共同管理人)
nashiyuki@hotmail.com

1995年1月17日 午前5時46分
阪神・淡路大震災発生 犠牲者 6433人

《あれから8年・・・》

一瞬の出来事でした。

明け方、突然目が覚めたら、自分の真上で電灯がぐるぐる回ったり天井にぶつかったりしていました。
その瞬間、はっきりと恐怖を覚えました。
窓際に寝ていたぼくは、ガラスが割れたときのために掛け布団で身を守りながら、ただ必死に揺れが収まるのを待っていました。

ひとしきり収まってから、家族の安否を確認しようとしてベッドから降りた瞬間、数mも離れた本棚から飛んできていた百科事典の山を踏みつけて足を挫いてしまいました。

地震の直後、まるで雷でも鳴っているかのように空がピカピカ光るのを見ました。
アレがあとで話題になった放電現象だったのでしょう。
父は地震の数分前に、まるで大型トラックのアイドリングのような地鳴りの音で目が覚めたと言います。

あの日、隣の宝塚市に住む母方の祖父母の家にはどれだけ電話しても繋がりませんでした。
普段なら車で15分もかからないそこまで、午後になってようやく辿り着いたとき、ぼくが幼少のころを過ごしたその家の二階部分は隣の田んぼに崩れていました。
祖父母は無事でした。
当時祖父母がいた一階部分はぺしゃんこで、冷蔵庫が天井を支えてくれた隙間から何とか逃げ出せたようです。

運び出した掛け時計は、5時46分で止まっていました。

うちの周りでも、うちの家以外、向かいも両隣も裏手も、近所の大きなマンションまでがすべて全壊でした。
うちだけがまるで奇跡のように、さしたる損傷も無く残ったのです。
うちの家から南に一キロほど下った辺りは震度七の激震区でした。
ちょうど阪急の高架が倒れた辺りです。
その辺りは特に、震災前の様子を思い出すのも難しいほど町並みが一変しました。

それでも長田区辺りの被害とは比べものにもなりません。
地震からほどなくして、長田区の辺りに行く機会がありましたがJRの車窓から見たのは一面の焼け野原でした。
何もありませんでした。

地震のずっと前から一人の友達に小説を貸していて、長いこと、「あ、ごめん、忘れたわ」「おいおい、早よ返せよ」の繰り返しでしたが、その本は結局、二度と返ってくることはなくなりました。
その友達は崩れた天井と本棚の間に首を挟まれ、帰らぬ人になっていました。
ぼくは学校の仮登校日になって、初めてそれを知りました。

あのころは、毎朝、毎夕水を汲みに近くの小学校まで行き、配給があればその列に並び、週に一度は少し離れた銭湯まで車で風呂に入りに行く、そんな生活でした。
余震を恐れて、毎晩枕元に靴を置き、服を着たままで寝ていました。
うちの辺りでは電気と電話はすぐに復旧しましたが、ガスと水道は結局春までかかりました。

あちこちで道路が瓦礫で埋まり、住んでいた人がそれを掘り返して大切なものを探しているのを、かろうじて残った塀に連絡先を書いた板が貼ってあるのを、そこかしこで花が供えてあるのをよく見ました。

人間は賽の河原に石を積んで生きているのだと、誰かが言っていました。
あのとき、ぼくも確かにそう思いました。

いまでも、ぼくたちは地震と全く関係のない普段の何気ない会話の中でも、地震をひとつの節目にして、「震災前」「震災後」といった時間の表し方をします。

確かに「あのとき」の記憶は年々薄れつつはありますが、誰しもの心の中にあまりに深く刻まれた出来事でした。

たまこ庵掲示板に投稿された一文を
阪神・淡路大震災を語りつぐ1ページとして
ご本人の承諾を得てここに保存させて頂きました。
2003年1月17日  管理人 たまこ

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